青春シンコペーションsfz


第4章 ハンス対ルーク!(1)


皆は騒然として立ち上がった。
「さらわれたって……いったいどうして……?」
井倉は混乱していた。
「私達は駅で落ち合った。そして、タクシー乗り場に向かっていたんだ。その途中で……」
フリードリッヒが状況を説明しようとした。が、ハンスがそれを遮って言った。
「それで、ファンにサインをしてやっている間に澄子が何者かに車に乗せられ、拉致されたって言うんだろう?」
ハンスが言った。
「まさしく! その通りだ。驚いたな。まさか君、近くにいたのか?」
フリードリッヒが訊いた。
「いや、妙に既知感があっただけだよ。それで、その車のナンバーは見たのか?」
「ああ。下3桁は421だった」
フリードリッヒが答える。それを聞くとハンスはすぐに端末を使ってどこかへ電話を掛けた。

「それにしたって、澄子が……どうして……」
井倉はおろおろするだけで、どうにも心が落ち着かなかった。
「何か心当たりはないの?」
美樹が訊いた。
「いえ。さっきの電話では、財布を落として困っているから迎えに来て欲しいって、それだけでした」
「それで、何か気がついた事はなかったの?」
彩香も訊いた。その時、じゃれ合っていた白猫の首輪が外れ、それを咥えて黒猫が逃げた。2匹は彼らの足元を風のように駆け抜けていった。鈴の音が遠くなるにつれ、井倉の意識も遠くなりそうだった。

「声の調子とか、周囲の状況とか……」
なかなか返事が出来ない彼に少し苛立つように彩香は質問を重ねた。
「……少し切迫していたような声でした。でも、財布を落として焦っているのかと……。それに、僕の方も切迫していたし……」
井倉が答える。
「警察に連絡した方がいいんじゃないのか?」
黒木がそう言い掛けた時、電話を終えたハンスが言った。
「いいえ。警察より僕の方が早いですよ」
そうしてまた、ハンスはどこかへ短い連絡をした。井倉は一人肩を落とし、皿の上に一片だけ残ったカステラを見つめた。

「すまない。私が付いていながら……」
フリードリッヒが詫びた。
「いえ、先生のせいじゃ……」
そう言い掛ける井倉を止めたのも、またハンスだった。
「そいつのせいに決まってるだろ? まったく、おめおめと2度も目の前で女の子をさらわれるなんて……。僕は遺憾に思っているですよ」
ハンスは端末を握り締めたまま歩き回って言った。
「だから僕は初めから気が乗らなかった。こんな奴とコンサートツアーに行かなきゃならないなんて、どうかと思うの」

「本当にすまん。次はどんな事があっても必ず守る。君の手は絶対に放さないつもりだ」
フリードリッヒは熱を帯びた視線で彼を見る。
「守るべき相手が違うだろう? おまえが守らなきゃならなかったのは僕じゃない。そもそも、おまえが澄子の手を放したせいでこうなったんだろうが」
ハンスが毒づく。
「いや、私は手を繋ごうとしたのだが、彼女が恥ずかしそうにするので……」
フリードリッヒは頻りに言い訳した。
「すみません、バウメン先生。妹が我儘言ったせいで……」
井倉が身を縮めて謝る。
「それ、井倉君のせいでも、澄子ちゃんのせいでもないと思うよ」
脇から美樹が言った。
「そうかもしれませんけど、僕……」
井倉がおどおどと言った。

その時、ハンスに電話が掛かって来た。
「OK! わかりました。井倉君を連れて行きます」
応対した彼が電話を切ると、井倉に出掛ける支度をするように告げた。
「行くってどこに……?」
井倉にはその意味がわからなかった。
「もちろん、澄子を助けにです」
「助けるって……」
井倉の胸は不安でいっぱいだった。それでも、彼はきっぱりと決断した。
「……わかりました。澄子を助けに行きます」

「タクシー呼ぼうか?」
美樹が訊いた。
「いえ、タクシーならちゃんとありますから……。専用のタクシーがね」
ハンスはそう言うと井倉を急がせた。
(先生は、僕をどこへ連れて行こうとしているんだろう? それに澄子は無事なんだろうか)
不安で胸が押し潰されそうだった。


隣家を回り込んだ林の小道にそれは停まっていた。その車の窓をノックして、ハンスがドイツ語で言った。
「急ぎの用がある。車を出すんだ」
「おい、俺はおまえの所有物じゃないぜ。俺の雇い主は有住だ」
相手の答えもドイツ語で返って来た。
「将来、そのお嬢様の婿になる男の妹を助けに行くんだ。関係なくはないだろう?」
ケスナーはちらと井倉を見ると面倒そうにドアを開けた。
「さあ、乗って」
ハンスにせかされ、井倉は戸惑いながらも後部座席の奥に乗った。ハンスは手前の運転席のすぐ後ろに座った。

「どこへ向かえばいいんだ?」
ケスナーが訊いた。
「港へ」
ハンスが答える。車は音もなく発進した。井倉は黙ってそんな男とハンスとを見比べている。
「心配ないよ。こいつは彩香さんの護衛兼運転手をしているケスナーという男だ。まあ、呼ぶ時はモーリーでいいよ」
ハンスが説明する。
「マウリッヒだ」
運転しながら男が言う。

「えーと、マウリッヒさんですか? それとも、ヘル ケスナーとお呼びした方がよろしいんでしょうか?」
井倉の問いに、ハンスが答える。
「どっちでもいいよ」
運転席の男が舌打ちする。が、ハンスは無視して言った。
「ああ、もっとスピード出せない?」
「制限速度がある」
淡々とした口調でケスナーが言った。
「命が懸かってるんだ」
(命?)
その単語を聞いて、井倉は震えた。

(命を狙われているなんて……。澄子が……いったいどうして……?)
井倉は目の前が真っ暗になるのを感じた。その時、またハンスの電話が鳴った。それは飴井からだった。

――「連中はB―16倉庫だ。追えるか?」
「もちろん」
――「書類は押さえた。ルドルフとリンダが井倉の両親の身柄を確保した」
「じゃあ、彼らは安全なんだね?」
――そうだ。あとは澄子さ。彼女が鍵を持ってる。連中の狙いもそれだ」

電話の内容は漏れ聞こえていた。車のスピードメーターが上がる度、井倉の緊張も激しくなった。

「じゃあ、その鍵が連中の手に渡ったら……」
――その時には彼女の命が危ない。だが、幸いにも、彼女はそれをどこかに隠したらしいんだ」
「まずいですね。拷問とか受けたらもたないでしょう?」
――「だから急ぐ必要があるんだ」
「わかりました。出来る限り急ぎます」
そのやり取りを聞いて、井倉は真っ青になった。
(拷問? 命が危ないなんて、そんな……)
「モーリー、一刻の余裕もない。全速力で頼む」
ハンスが運転席の男をせかす。

「あの、澄子が一体何をしたって言うんですか? 鍵って何です? それなら、早くその鍵を渡してしまえば……」
「そんな事をしたら、本当に奴らは彼女を殺すかもしれない」
真剣な表情でハンスが言った。
「そ、そんな……」
井倉は俯いたまま、膝が震えるのを感じた。
ハンスの持つ携帯にまた連絡が来た。ジョンからだった。

――「上手く行ったよ。連中は鍵を井倉君が持っていると信じたようだ。彼を一人で寄越すようにと指示を送って来た」
「いいよ。こっちはいつでもOKだ」
ハンスの言葉を聞いて井倉の鼓動は早鐘状態になった。
(いつでもOKって……? 何なんですか? 僕、全然OKじゃないんですけど……)
次々と展開する状況の変化に井倉は付いて行けなかった。

「井倉君、よかったですね。ついに君の出番です」
「出番ってその……」
「君は澄子ちゃんから預かった鍵を持っている。ほら、これです」
そう言うとハンスはポケットから出した小さな鍵を渡した。
「いつの間にこんな……」
「いいですか? 君はこれを妹から預かっていたんです。それと引き替えに妹を返してもらう」
ハンスの青い瞳がじっと井倉の目を覗き込む。

「でも……これって何の鍵なんですか?」
「駅前のロッカーです。そこには大事な書類が入っている。奴らはそれが欲しいのです。君の両親がこれまで必死に守って来た物ですよ。これが明るみに出る事で彼らは破滅するでしょう」
「破滅?」
井倉は何も聞いていなかった。両親からも妹からも、そして、ハンスからも……。何一つ知らされていなかった。
「先生はご存知だったんですか?」
「僕もつい最近聞いたのです。この件では、ずっとキャンディーが調べ続けていてくれました」

彼がキャンディーと呼んでいるのは、飴井進の事で、彼は井倉の両親が経営していた会社が絡んだ事件を調査してくれている探偵だった。
「君のご両親が音楽会に来られなかったのも実は状況が差し迫っていたからなのです」
「そんな……」
知らなかった事が悔やまれた。
(僕は自分の事でいっぱいで、家族の事なんて思い出しもしなかった。そんな時でもハンス先生は僕よりずっと多くの事を把握していたんだ)
井倉はそんな自分が情けないと思った。
(僕の手は、なんて小さいんだろう)
井倉が思わず膝の上に開いた自分の手を見つめていると、ハンスがその手に何かを乗せた。

「万が一のために持っていてください」
ハンスが渡したのは小型の銃だった。
「そ、そんな……! 無理ですよ。僕にはとても扱えません。それに、銃なんて持っているだけで犯罪です」
井倉が焦ってそれを返そうとすると、ハンスはそっとその手を包んで言った。
「これはただの脅し。よく出来ているけど、水鉄砲なんです」
「え?」
「でも、ちょっと見には本物っぽいでしょう?」
ハンスが片目を瞑って笑う。
「だからね、いざとなったら威嚇に使ってください。僕がサポートします」
「でも……」

膝の上に置かれたそれは小さいけれどずしりとした重みがあった。それは拳銃の重みというよりは心理的な重みにほかならなかった。井倉はそっとそれを持ち上げて見た。銃口からは微かに鉄のにおいがした。
(これは水鉄砲なんかじゃない。でも、どうしてハンス先生はこんな物を僕に持たせようとするんだろう? 僕に扱えるとでも思っているのか? それとも、本当に危険だからか? どちらにしても僕には撃てない。撃てないのに……)

「モーリー、ここで車をユーターンさせて待つんだ。そして、澄子と井倉が戻って来たら二人を乗せてすぐに戻れ」
港近くの十字路を過ぎたところでハンスが言った。
「どちらか一人だったら?」
「澄子が来た時だけ戻れ」
ケスナーが了解すると、ハンスは井倉を促してB―16倉庫を目指した。


広い敷地には、同じような建物が幾つも並んでいた。
「では、君はB−16倉庫とやらへ行ってください」
「B―16倉庫って……」
「多分、一番目立たない所にあるんじゃないかな? 一つだけ離れてるあの辺とか……」
ハンスが視線で示す。確かに離れた海の近くに古びた建物がぽつんと一つだけ建っていた。
「いいですか? 僕の言う事をよく聞いて……。君は澄子ちゃんの安全だけを考えて行動してください」
「はい」
井倉は頷いた。

「こんな事になって、僕を恨んでいますか? それでも構いませんよ。それで、澄子ちゃんの命が助かるならね」
ハンスが言った。
「君は、僕にとって一番大切な才能のある弟子である事に変わりはありません。だけど、僕は、澄子ちゃんのような子どもを犠牲にするなんて事は絶対に許せないのです。僕が直接行けば簡単かもしれないけれど、一瞬でも遅れれば、彼らは容赦なく澄子を殺すでしょう。ならば、僕は澄子を助けるために君を使ってリスクを減らす。結果として、君に対するリスクが増大するかもしれないけど、その方が確実に澄子を救える。そう確信するからなのです」
「先生……」
井倉はその手を差し出した。

「お願いします。澄子を助けてください。僕はどうなっても構いません。だから、妹だけは必ず……」
「大丈夫。君も澄子もきっと助けます」
そう言うとハンスはその手を強く握った。
「鍵は出来るだけ遠くへ放ってください。澄子が解放されたら、彼女を連れて全力で走って車の所まで戻ってください。あとは僕が何とかします。君は振り返ってはいけません。いいですね? たとえ、何があろうと後ろを見ない事。それだけは約束してください」
「わかりました」
「では、幸運を!」
そう言うとハンスは別の方向へ駆けて行った。どこへ行くのかは訊かなかった。今はただ自分が目指す場所だけを見つめ、渡された鍵を強く握り締めた。

――君は、僕にとって一番大切な才能のある弟子である事に変わりはありません

(ハンス先生……)
師にそう言ってもらえただけでうれしかった。

――僕は、澄子ちゃんのような子どもを犠牲にするなんて事は絶対に許せないのです

(ああ。それで十分です、先生)
井倉は込み上げる思いを潮風に飛ばした。
(澄子の事を一番に考えてくれる先生に、僕は命を預けます)


倉庫の扉は金属製で少し錆び付いていた。中は暗く、灯りもなかった。井倉は思い切って扉を開いた。軋む金属音が響いた。大きく開け放した入り口から日暮れの光が射し込む。彼はゆっくりと歩を進め、周囲を見た。積まれたコンテナには埃が積もっている。足の下のコンクリートはざらついていた。大型の台車には運ばれないまま荷物が残されている。
「澄子……」
果たして、こんな場所に妹はいるのだろうかと疑問に思いながら奥まで行くと壁のように聳えたコンテナの向こうから男の声が響いた。
「おまえが井倉優介か?」
「そうだ」
井倉は足を止めて言う。
「妹は……。澄子はどこだ?」
井倉が叫ぶ。その声が反響して倉庫の中に響く。
「焦らなくても妹は無事だ」
別の男の声がした。落ち着いた低音の声だった。

「なら、今すぐ返してください!」
井倉が叫ぶ。
「取り引きが先だ。鍵は持って来たんだろうな?」
「はい。ここにあります」
井倉はハンスからもらった鍵をカチャリと振った。
「では、その鍵を渡せ!」
その時、澄子が叫んだ。
「駄目だよ、お兄ちゃん! それを渡しちゃ駄目!」
しかし、物音と共に、その声は悲鳴に変わった。
「澄子! 大丈夫か? 澄子!」

井倉が駆け寄ろうとすると、物陰から現れた複数の男達が澄子を抑えつけ、一人の男がピストルを向けていた。井倉は思わず足を止める。澄子はもう一人の男に口を塞がれ、怯えた目でこちらを見ている。
「澄子に何をした?」
「何もしちゃいないよ。君が我々の言う事を聞いてくれればね」
三人目の男が言った。
「鍵はやる。だから、澄子を放してくれ!」
「では、先に鍵だ。こっちに鍵を投げるんだ」
最初の男が言った。

――鍵は出来るだけ遠くへ放ってください

ハンスの言葉が頭を過ぎった。が、井倉はそうしなかった。
「妹が先だ。鍵だけ奪って僕や澄子を殺すかもしれないからな」
自分でも驚く程落ち着いた声が出た。
「ならば、同時だ。それならいいだろう?」
「いや、駄目だ! おまえには仲間がいる。二人は後ろを向け! そして、武器は捨てろ! 一人だけで澄子を連れて来るんだ。そして、鍵と妹とを交換する」
湿気った外気が流れ込んで、倉庫の中を巡回した。井倉の足は震えていたが、声は語気を増していた。
「いいだろう」
男が承知した。しかし、それはあくまでも表面だけの同意に過ぎない。井倉にはそれもわかっていた。それでも、取り引きをしなければならなかった。澄子を解放させるためには、そうするしかない。

交渉に応じた男が他の二人に指示をする。それは中国語だった。武器を捨てさせ、二人に後ろを向くように言う。それから、自分も持っていたピストルを床に置き、澄子を歩かせて、こちらに近づいて来る。澄子は顔を強張らせ、僅かに右足を引きずっていた。が、井倉は妹に大丈夫だと目で合図して、自分はそこから動かずにいた。
相手は本当に丸腰なのか。鍵を渡した途端、隠していたもう一つの銃で撃って来るかもしれないし、ナイフを向けて来るかもしれない。背後にいる者達もいつまでそうしているか怪しい。銃は彼らの手の届く所にあるのだ。井倉は、失敗したと思った。武器はもっと遠くに置くように指示すればよかったと……。アクション物の映画でもよくあるではないか。置いた銃を蹴らせるとか、何故、咄嗟にその言葉が出なかったのか。しかし、すべては後の祭りだ。
井倉は、近づいて来る男を睨み付けた。緊張し、汗びっしょりになっていた。が、男の方は僅かに唇の端を上げている。余裕なのだ。

(きっと何かを仕掛けて来る)
井倉は焦った。が、今となってはどうにもならない。足が震えるのを必死に耐えた。
「さあ、鍵を渡してもらおうか?」
男の足がぴたりと止まる。
「わかった」
井倉はその鍵を出来るだけ遠くへ投げた。そして、次の瞬間、澄子の手を掴んで出口に向かって駆け出した。背後から男のつく悪態が聞こえた。そして、ほぼ同時に背後の二人が銃を撃って来た。それは倉庫の中に谺して耳が痛くなる程だった。が、井倉はそのまま出口を目指した。

――何があっても振り返らない

そう言うハンスの言葉通りに……。
その後も男達は何発も撃って来たが、弾丸はどれも二人を逸れて行った。
「お兄ちゃん!」
澄子が転んだ。
「足が……!」
彼女は始めから足の動きが重かった。
「わたし、もう走れない! 逃げて! お兄ちゃん!」
「馬鹿! おまえを置いてなんか行けないよ。ほら、お兄ちゃんが手を貸してやる」
「無理だよ。連中に捕まった時、足を捻って……。歩くのだって痛くてやっとだったの。これ以上走るなんてとても……」
澄子は泣きながら訴えた。

「わかった。おんぶしてやる。ほら、俺の背中に……」
彼がしゃがんで背中を向けた時、妹が悲鳴を上げた。倉庫にいた奴らとは違う男が建物の脇から出て来て、澄子の手首を掴み、強引に引きずったのだ。
「澄子!」
背後で銃声が響いた。が、それは自分達を狙った物ではないと井倉は判断した。聞こえる方向が違っていたからだ。
(ハンス先生が……?)
一瞬そう思った。だが、考えている余裕などなかった。目の前で妹が連れ去られようとしていたからだ。
「畜生! 妹を放せ!」
彼女の手を取ろうとした。が、相手の方が早かった。無理に引き寄せられた澄子の手首を捻り上げ、手で口を塞ぐ。

「はは。惜しかったな。坊や。せっかく健闘したのにな」
男が言った。
「澄子を放せ!」
井倉が怒鳴る。
「いやだと言ったら?」
井倉はズボンのポケットから銃を取り出して構えた。
「おまえを撃つ!」
しかし、その男はあからさまに馬鹿にして笑った。
「素人の坊やが何勢い込んでいるんだ? そんなに震えてちゃたとえ水鉄砲だって当たりゃしないぜ」

「そ、そんなのやってみなけりゃわからない」
井倉は両手でその銃を持って構えた。その冷たさだけが唯一彼の平静を保つための砦だった。それを掴んでいなければ、たちまち崩れて、膝を突いてしまいそうだったからだ。
「下手に撃てば、大事な妹に当たっちまうかもしれないぜ」
男がさらに挑発する。
「うるさい! 黙れ! 早く放さないと本当に撃つぞ!」
どうにもならないとわかっていた。相手を狙っていながら、銃口は微妙に逸れてしまっている。狙いを定めようとすればする程、震えが止まらなくなる。
「やめておけ!」
男が諭すように目を細める。

「僕は本気だ!」
井倉が叫ぶ。が、男はまるで相手にしていない。はじめから撃てる筈がないと踏んでいるのだ。実際、井倉自身もそう思っていた。が、目の前に傷付いた妹がいて、痛みに耐えながらこちらを見ている。そして、溜まった涙がつーっと頬を伝った時、彼は引き金を引いた。小さな反動が全身に伝い、彼は数歩後ろに下がった。男が飛ばされ、後ろ向きに倒れる。反対に澄子は前のめりになり、数歩前に出る形になった。
「澄子!」
井倉は急いで妹の身体を抱き留めた。
そして、二人共その場に座り込んだ。